行動科学×機械学習という「ナッジAI」の活用で、世界の公衆衛生市場を変革へ
のどが渇いたのでドリンクを買う。友達と食事を楽しむためにレストランを予約する。子供が大きくなったので家族で海外旅行に行く。このような行動を引き起こす理由は、はっきりしている。
ところが、感染症のワクチン接種を受ける、念のためにがん検診を受ける、ダイエットを始めるといった行動となると、今やらなければならないものでない。自らの健康に役立つかもしれないが、すぐに満足が得られない。そんなとき、人間はなかなか行動を起こしにくいものだ。だがよく考えてみると、感染症の拡大阻止、がんの早期発見、生活習慣病の減少ができれば、医療費などの社会全体で見たコストが削減できる大きなメリットがある。
このような社会全体に役立つ個人の行動を引き起こすために、行動科学と機械学習を組み合わせた「ナッジAI®︎(nudge AI)」を活用するスタートアップが現れ、注目を集めている。ナッジは、そっと後押しをするという意味だ。そして行動科学は、人間の行動を分析して何らかの規則、つまりクセのようなものを明らかにするので、これに機械学習を組み合わせれば、個人の行動を変化させられる手法が判ってくる。
この「ナッジAI」を世界の人々の健康の維持と増進に使おうとするのが株式会社Godot(ゴドー)だ。今年7月、神戸市に同社を立ち上げて、CEOを務める森山 健に話を聞いてみた。
「ナッジAI」で実現すること
――「ナッジAI」で、何を実現しようとしているのですか?
森山:人間がどう行動するのかを決めるとき、何らかの情報を入手して、それをもとに判断します。なので、同じ情報を手に入れても行動に移す人と何もしない人がいます。さらに、Aという情報では行動しなかった人に、Bという情報を与えると行動することがあります。
ワクチン接種を例にとると、接種しない人にどうして打たないのかを聞くといろいろな理由があります。「やるのが面倒」「時間がない」「接種方法が分らない」「自分には不要」などです。なので、接種を勧めようとしたときに、どういうメッセージを伝えればよいのかは、人によって違ってくるのです。例えば、「接種するのが社会の規範です」「接種すればこういう効果があります」「接種しないとこんな病気になります」「こちらが接種手続です」「この感染症での国内死亡者は年間○○人です」などです。
そこで、それぞれの個人にこれらの情報を一つずつ届けて、どの情報に反応したのかのデータを取ります。そして、全く別の自治体が行う大腸がんの検診を案内するときには、一番有効であった種類の情報を伝えればよいのです。
――年齢や性別、家族構成、住んでいる地域など属性によって人間の行動特性は変わります。そこで人々の行動をビックデータとして蓄積して解析する方法が最近の主流でした。そうでなく一人ひとりのデータを取るということですか?
森山:我々の最大の特徴は、年齢や性別のような集団の属性から推定するのでなく、各個人に実際に届けた情報とそれで行動につながったか否かの結果を個別に集めるところにあります。集団の情報を集めなくて良いので、ゼロからのスタートがすぐにできる特徴があります。
そして、どのような情報を与えるのかは、行動科学の研究結果と弊社が独自に開発した技術をもとにしたMECE(ミッシー)モデルから割り出します。MECEとは、「Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive」の略で「モレがなく、ダブりがない」という意味です。考えられる全ての種類の情報をカバーしながら似たような情報がないように、情報を分類していきます。その中で影響が大きい要因をいくつか取り出して、どの要因が、どのくらいの力で行動を阻害しているのかを分析します。すると、心の中にあるどのボタンをどのくらいの強さで押せば行動するのかが分かってきます。
社会にインパクトがある分野で行動変容を促す
――与えられる情報が変わると人の行動が変化するというのは分りますが、どの程度変化するものですか?
森山:大阪市での大腸がん検診の実例で大きな効果があることが分りました。これまで検診の受診率はわずか7%程度で、これは大きな問題でした。そこで、約4,000人を対象として、携帯番号が判っている1,725人には異なる種類のショートメッセージを何回も送りました。さらに、携帯番号が不明である対象者を含めてある時期までに受診しなかった2,188人に検診を勧めるハガキを送付しました。すると、受診した人の割合は45.5%に達しました。ハガキだけでは39%が受診したのに較べ、ショートメッセージを送った方は53.5%が受診し、14.5%ポイントも上昇しました。
――この方法であれば、生命保険の契約とか、住宅を購入してもらうといった商品の「広告」として活用できるのではないですか?
森山:広告に使いたいという引き合いはあります。ですが、我々はあくまでSDGsが優先です。人間の行動変容のROI(Return on Investment)が高い領域、つまり感染症の拡大防止、生活習慣病の重症化予防といった社会に大きなインパクトがある分野が主戦場と考えています。
当社をサポートしている投資家からもこの道からぶれるなと言われています。ですので、現在の顧客は、行政機関が中心です。生命保険会社もありますが、保険商品の勧誘でなく、保険加入者向けの健康増進が目的です。
「ナッジAI」分野で起業したきっかけ
――これまでどのような経歴を歩んできて、ここにきてどうして「ナッジAI」という分野で起業しようと思ったのですか?
森山:神戸で生まれて、シアトルで育ちました。世の中の仕組みが知りたくて大学での専攻で選んだのは「確率論」と「情報工学」です。そのあとゴールドマン・サックスに入社したのですが、投資ファンドを立ち上げる事業からヘッドハンティングを受けました。そのファンドを売却したころに心境に変化が生まれました。このまま金融の世界でお金を稼いで私生活を楽しむ人生を送っていいのだろうかと考えました。そんなとき、モハマド・ユヌスの著書「貧困のない世界を創る」を読んで、自ら事業をやろうと考えました。
ですが、エンジェル投資家として途上国で3年ほどいくつかの事業に携わっていくうちに、草の根活動に限界が見えてきました。鶏のふんからのバイオガスの生成や、無電化地域で太陽光発電ランプの貸し出しをいくら続けても、現実の貧困に苦しむ人たちの生活は大きく変わらないのです。
突破口を探すべく、行政の政策判断に数値などの合理的根拠を求める「EBPM(Evidence-based policy making)」を学ぶためにオックスフォード大学に留学しました。そのあと、当社の前身になるケイスリーの立ち上げに参画しました。
――最近は、国連など国際機関の支援事業での採択が続いています。事業展開にどのように役立っているのですか?
森山:2021年10月に、UNOPS(国連プロジェクトサービス機関)と兵庫県・神戸市による事業で採択されました。そのあとも2022年4月にはWHO(世界保健機構)に採択されました。国連機関による評価は、各国政府からの信頼確保につながります。ベトナムで結核予防の実証事業を始めたところです。
さらに2022年7月に株式会社Godot(ゴドー)として独立して、私がCEOとなりました。オーストリア政府が行うアジア地域のスタートアップを欧州へ進出させる事業にも採択されました。先日も3週間、現地滞在しましたが提携先の開拓につながりました。特にウィーン大学ではAI倫理の研究が進んでいます。当社のやり方は、個人の特性を知ることになるので倫理面あるいは個人情報保護の点で課題があります。ところが、欧州は個人情報保護の考え方が進んでいるので、とても勉強になりました。
―――――――――――――
公衆衛生分野で「ナッジAI」を使うスタートアップはかなり異色だ。ソーシャルインパクトが大きいので、今どきの投資家に好まれる領域といえよう。世界の公衆衛生という巨大市場を舞台にした彼のこれから活躍、チャンスがあればさらにレポートしたい。
【著者プロフィール】
多名部 重則
神戸市 広報戦略部長兼広報官
1997年神戸市採用。2015年にスタートアップ育成を軸にしたイノベーション施策を立ち上げる。米国シリコンバレーの投資ファンド「500 Startups」との起業家育成事業、スタートアップと市職員による新たなDXサービスの共同開発、UNOPS(国連プロジェクトサービス機関)のイノベーション拠点の誘致をリードした。2016年からアフリカ・ルワンダ共和国との連携・交流事業を推進。2020年、広報業務に「副業人材」40人を登用。2022年からは、デザイナー、動画クリエイター、ライターなどを職員として採用することで、神戸市のデザイン業務のインハウス化に挑んでる。博士(情報学)。