2023.4.25

【伊東豊雄】震災への関りから生まれた世界的な建築家の“思考の転換”。

和泉 俊史

ライター


伊東豊雄 建築家(前編) / 聞き手 白井良邦

課題解決の“デザイン”

デザインを通してビジネス、地域、社会全体の課題解決に取り組む人物にスポットを当て、そのひとが何故、どういうきっかけで、どのようにして“デザイン”で課題を解決したのかに迫る本コーナー。「デザインによる課題解決」に至った過程、悩み、模索し生まれたデザインとは?編集者で、慶應義塾大学特別招聘教授の白井良邦が聞いた。

伊東豊雄といえば、日本はもちろん海外でも、建築界では知らぬ者はいない有名建築家である。建築界のオリンピックとでもいうべき「ヴェネチアビエンナーレ国際建築展」では2度の金獅子賞を受賞。2013年には建築界のノーベル賞といわれるプリツカー建築賞も受賞している。その建築作品は美術館や図書館、オペラハウスなど多岐ににわたり、日本以外にも、フランス、スペイン、オランダ、メキシコ、チリ、シンガポール、台湾など海外でも手掛けている。もちろん現在でも<水戸市民会館>(2023年7月オープン予定)など、国内外で多くのプロジェクトが進行中だ。

そんな巨匠建築家の活動が明らかに変わったのは、2011年のことだった。今までトップランナーとして世界の建築界を驚かせる建築空間を生み出し続けてきた“新しい建築の追求”から、NPO「これからの建築を考える」を立ち上げ、“人に寄り添う場所をつくること” “建築を通した子供のための教育” にシフトしたのだ。そこに一体、どのような考えや思いがあるのか? 建築を通じどのようにして課題解決をしてきたのか? 東京・代官山にある伊東豊雄の事務所を訪ねた。

伊東豊雄氏。撮影/鷲崎浩太郎

――― 今回は仕事面において「デザインで課題解決ができるかどうか?」に関してお伺いしたいと思います。建築家として伊東さんの活動で近年印象的なのは、東日本大震災への取り組みです。まずは、このお話からお伺いしたいと思います

伊東 東日本大震災による三陸沿岸の惨状は、私にとって生涯忘れ難い体験です。NPOを立ち上げ、建築塾をスタートさせた直後に震災が起きたんです。塾生たちと初めて現地を訪れたのは岩手県の釜石でした。東北大学の先生から釜石の再建にぜひ関わってくださいと声をかけてもらったのがきっかけです。まだ新幹線が開通していなかったので、所員や建築塾の塾生と一緒に夜行バスで行きました。翌朝ようやく着いて地元の人たちと顔合わせをしたら、“おまえら何しに来たんだ?”と。“おれたちの街は自分たちでつくるんだ”と、いきなり言われてしまいました。

――― いきなり・・・ですか?

伊東 でもすぐに、こいつらは悪いやつではなさそうだと打ち解けてくれて(笑)。それから2年にわたり、かなりの頻度で釜石に通いました。

――― どんなことをされたんですか?

伊東 結局、思うようなことはできなかったんです。というのも、防潮堤や避難場所のデザインを市に提案したのですが、街の人たちはいいね、と言ってくれたものの、当時の国や県の方針は、どこの街も同じでないとだめだ、釜石だけ特別な街であっては困る、というものでした。もしその案を進めると復興のための予算をもらえないから、ということで実現にはいたりませんでした。結局、今どこの被災地を見てみも「防潮堤」「かさ上げ」「高台移転」という3点セットで、変わり映えの無い、味気ない街になってしまっていて、非常に残念なことだと思います。

2011年10月に仙台市宮城野区に完成した「みんなの家」。撮影/伊藤トオル

――― 被災した方々が集まり交流するための場である、「みんなの家」をつくりましたよね?

伊東 当時、仮設住宅がつくられていましたが、そこでの問題点は、住む人たちが気軽に集まることができる場がなかったことです。そういった場づくりであれば自分たちでも貢献できるのではないかと思い、最初の「みんなの家」を設計し、仙台市宮城野区につくりました。2011年10月のことです。

――― 建築家がデザインしたというよりは、本当に普通の家のような形でしたよね。

伊東 実は家のデザインに関しては悩みました。私が今まで設計してきたような建築を被災地につくっても地元の人は誰も喜ばないのではないか・・・と。それよりは、縁側があったほうがいいだろうな、とか、薪ストーブを置いた方がいいんじゃないか、と。仮設住宅に移った方々から何度も話を聞きながら、「みんなの家」を形にしていったわけです。

――― 実際に「みんなの家」を利用する地元の方々の反応はいかがでしたか?

伊東 すごく喜んでもらいました。仮設住宅をもらっても自分の家が戻ってきたとは思わなかったけれど、この「みんなの家」にいると、共同で利用するものではあるのだけれど、なんだか自分の家に帰ってきたような気がするということを言っていた方もいらっしゃいました。木のぬくもりがあるとか、照明のやさしい光が良いとか、本当にささいなことなんです。でもそういったことが一番、使う人たちに喜んでもらえるということがわかりました。

仮設住宅に暮らす人が集う仙台宮城野区の「みんなの家」での様子。撮影/伊藤トオル

――― 宮城県につくった「みんなの家」の第一号は、熊本県からのサポートでつくったそうですね。

伊東 私がコミッショナーを務めていた「くまもとアートポリス」という建築プロジェクトで係わりのあった蒲島郁夫熊本県知事に、仮設住宅の暮らしが悲惨で住民が集まって語り合い憩える場所を作りたいと協力をお願いしました。蒲島知事は県外の事業だけれど良いアイディアなのでとすぐ支援を約束してくれ、熊本県産の材木や資金の一部を提供してくれました。場所については<せんだいメディアテーク>での関係で仙台市の奥山恵美子市長(当時)からの提案もあり宮城野区の公園に決まったという経緯があります。

――― 最終的には、いろいろな建築家も巻き込み、東北に16軒もの「みんなの家」をつくりましたよね。

伊東 若い建築家と何度も被災地に足を運び、現地の人々や地方自治体の人々との対話を繰り返し、「建築家として何が可能か」を模索しました。でも実現し得たのは十数軒の「みんなの家」に過ぎません。でもこの小さなプロジェクトから多くのことを学んだことは収穫だったと思います。

伊東豊雄が台湾に設計した<台中国家歌劇院(台中オペラハウス)>(2016年開館)写真提供/伊東豊雄建築設計事務所

――― 伊東さんが、「みんなの家」プロジェクトから学んだことって、どんなことでしょうか?

伊東 2011年までは、常に美しい空間を求め、個人のオリジナリティを追求してきました。その集大成とも言えるのが<台中国家歌劇院(台中オペラハウス)>です。2005年にスタートし、約10年の歳月をかけ、2016年にオープンしました。このプロジェクトの完成を以て、私たちのチームがつくりあげてきた建築の第一期は終止符を打ったと思います。空間至上主義でこれ以上の作品を今後再びつくりうることは考えられないと思われるからです。

曲線を描く空間が連続して広がる<台中国家歌劇院(台中オペラハウス)>の内部空間。撮影/中村絵

――― なるほど・・・。

伊東 「みんなの家」をつくってみて感じたことは、これまで考えてきた個人のオリジナリティの表現よりも、利用者と一緒になって考え、一緒につくる。つまり設計者、クライアント、施工者の区別はほとんどないこと。そして、地域で利用できる素材、工法、生活の仕方に従って柔軟に発想すること。これが、とても大切なことに思いました。

――― 瀬戸内海に浮かぶ大三島(おおみしま)で、伊東さんの新たな活動が始まったのも、この東日本大震災の後ですよね。この島と関わるきっかけは何だったのでしょうか?

伊東 大三島は広島県の尾道市から愛媛県の今治市(いまばり)まで続く「しまなみ海道」の途中に位置する人口6,000人ほどの島です。長野県で中学生まで過ごしその後東京で育った私にとって、実は全く縁のない場所でした。ですが、機会に恵まれ今治市が私の<伊東豊雄建築ミュージアム>を2011年にオープンしてくださり、それを機に、隣接地に私のかつての東京の自邸<シルバーハット>を再建しました。また、彫刻家・岩田健氏の<岩田健 母と子のミュージアム>も私が設計することになり、そこからすぐ近くのところに同時オープンしたんです。

瀬戸内海に浮かぶ大三島にある<今治市伊東豊雄建築ミュージアム>

――― 私も何度かその2つのミュージアムへ脚を運びましたが、美しい瀬戸内海の風景と共にある、素敵な場所に建っていますよね。

伊東 大三島の魅力は、年中温暖で、美しい島の風景があることです。島の大半はみかん畑の斜面に覆われ開発らしい開発は行われてこなかったので昔ながらの風景もあり、瀬戸内に沈む夕陽はものすごく綺麗なんです。歴史ある「大山祇(おおやまづみ)神社」という日本でも有数の歴史を誇る神社を中心に島が守られてきたんですね。私は残された建築人生を、この瀬戸内海に浮かぶ大三島の島づくりにも力を注いでみようと思っています。

――― その決心の裏にあるのは、どのような考えからでしょうか?

伊東 私は、これから建築家は、個々のプロジェクトが地味であっても、小さな力を結集して、地域をいかに楽しい生活の場とするかが問われているのではないでしょうか。大都市がかつてのように魅力的であった時代は既に終わりを告げようとしていると考えています。

インタビューは、東京・代官山にある伊東豊雄建築設計事務所で行われた。撮影/鷲崎浩太郎

今回は、現代建築界のトップランナーとして「建築」を追求してきた伊東豊雄さんが、東日本大震災への支援をきっかけに、その思考が変わったお話を具体的に聞いてみました。

次回は、2011年に立ち上げた「子ども建築塾」での活動のお話しを通じ、“グループでものを生み出す”デザイン手法について伺います。

後編に続く

伊東豊雄のプロフィール

建築家

1941年生まれ。1965年、東京大学工学部建築学科卒業。主な作品に<せんだいメディアテーク><多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)><みんなの森 ぎふメディアコスモス><台中国家歌劇院>など。ヴェネチアビエンナーレ国際建築展で2度の金獅子賞(2002年のライフタイムアチーブメント、及び2012年の日本館展示)や、建築界のノーベル賞といわれるプリツカー建築賞(2013年)など受賞多数。2011年にNPO法人「これからの建築を考える」設立。私塾「伊東建築塾」を開設し、子ども建築塾など、これからの街や建築を考える建築教育の場を設け様々な活動を行っている。また自身の<今治市伊東豊雄建築ミュージアム>が建つ愛媛県今治市の大三島で、塾生有志や地域の人々と共に継続的なまちづくりの活動に取り組んでいる。

聞き手 白井良邦のプロフィール】

編集者/慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。

1993年(株)マガジンハウス入社。雑誌「POPEYE」「BRUTUS」編集部を経て、「CasaBRUTUS」には1998年の創刊準備から関わる。2007年~2016年CasaBRUTUS副編集長。建築、現代美術を中心に「伊東豊雄特集」、書籍「杉本博司の空間感」、連載「櫻井翔のケンチクを学ぶ旅」などを手掛ける。2017年より「せとうちクリエイティブ&トラベル」代表取締役を務め、客船guntu(ガンツウ)など、瀬戸内海での富裕層向け観光事業に携わる。2020年夏、編集コンサルティング会社(株)アプリコ・インターナショナル設立。出版の垣根を越え、様々な物事を“編集”する事業を行う。著書に「世界のビックリ建築を追え」(扶桑社)、共著に『この旅館をどう立て直すか』(CCCメディアハウス)、『Shiroiya Hotel-Givng Anew』(ADP)など。

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