【串田和美】異なるバックグラウンドの人たちとモノを創るには
串田 和美(くしだ・かずよし)俳優・演出家・舞台美術家
2020年6月、長野県松本市の公園のあずまやで、串田和美が演劇をした。音楽も舞台美術も使わない、独り芝居「月夜のファウスト」だ。(2022年5月より本作で全国を巡る)
串田は、俳優で、演出家で、舞台美術家だ。渋谷の東急Bunkamuraシアターコクーンの初代芸術監督で、現在は長野県・まつもと市民芸術館総監督をつとめている。演劇界で華々しい受賞歴とキャリアをもつ串田だが、演劇人としての最初の拠点は、六本木通り沿いの硝子屋の地下に作った、小さな自前の劇場だった。
小劇場にはじまり、大企業が運営する劇場、さらに公共の劇場を立ち上げてきた串田。それぞれのフェーズで何を思い、どのように演劇と向き合ってきたのか。かつて串田が率いた、オンシアター自由劇場の拠点だった場所で、話を聞いた。
地下の小劇場から、日本初の大型複合文化施設へ
──串田さんが初代芸術監督をつとめたシアターコクーンは、日本で初めてできた大型複合文化施設「Bunkamura」の劇場です。あのクラスの劇場を任される人材が、ここにあった小さな劇場から見つられたわけですよね。
串田:
きっかけは田中珍彦(うずひこ)さん。Bunkamura開発計画のために、東急エージェンシーから東急百貨店に転籍してきた人です。とても面白い人でした。彼はオンシアター自由劇場だけでなく、当時の色々なものを自分の目で見て、僕に声をかけてくれたのだと思う。はじめは無理だと断った。でもそれからも彼はここにきて、その辺りに座って稽古を見ていた。また来てるよ……なんて思って。
──大抜擢のお話を、すぐに引き受けられなかったのは、なぜですか?
串田:
商業的な演劇は出来ないと思った。企業が運営する劇場だと、内容に口を出されることがあるかもしれない。大きな劇場でやることにも興味もなかった。さすがに、ここよりはもうちょっと広いといいなとは、絶えず思っていたけれど(笑)。
──商業演劇と小劇場では、それほどちがいますか?
串田:
小劇場って、劇場の面積の話だけではないと思っています。
商業を目的にしない演劇なら、時には割に合わなくても、手間をかけて稽古をして、全責任をもって見せたいものを作ることができる。その頃の僕らは、ありがたいことに多くのお客さんに見てもらえるようになっていました。『上海バンスキング』がヒットし、博品館劇場や地方でも公演をして。
自分たちで手作りをして、工夫をして作った演劇に、いっぱいのお客さんが来てくれる。そこに自信やプライドがあった。そういったものを、コクーンに持っていけるのかどうかをずっと考えていたのかな。
──では、引き受けた決め手は?
串田:
ある時、珍彦さんがご飯をご馳走すると言ってくれた。皆に行くか聞いたら、「ウン!行く!」って嬉しそうについてきて、いっぺんに気を許しちゃった。
──おいしいご飯は大事ですね(笑)
串田:
本当だね(笑)。
後になって珍彦さんから、第二希望や第三希望を準備しているようでは、人は説得できないって聞かされました。「ここがダメなら、この話は無し」くらいの気持ちでないと、人は説得できないって。
それから、珍彦さんよりさらに上の人で東急百貨店の社長・三浦さんから聞いた話があるんです。東急は、多摩川を綺麗にする事業もやってるんだって。たしかに川が流れるエリアに鉄道や不動産がある。つながりは分かるけれど、ほとんど誰にも知られていない、遠回りなやり方だよね。
でも「東急百貨店にくる人が豊かな気持ちで暮らしていないと、きっと買い物もしないよね」と言っていた。人の心を豊かにするのは劇場も同じだよなって思った。
──1985年から4年間の準備期間を経て、1989年に開館。串田さんは1996年までシアターコクーン芸術監督をつとめました。大企業が運営する劇場のトップになり、気づいたことはありますか?
串田:
株主とか社員とか、演劇以外のことも考えないといけなくなった。建前として。
──建前として、考えている感じを出していたのでしょうか。
串田:
いや、あまり出していなかったな(笑)。建前は必要だったと思うけれど、僕がそれを出してしまうと、かえって上手くいかなくなるんじゃないかな。駄目ならクビにしてくださいというスタンスでした。
──先ほどの田中珍彦さんの「第二希望、第三希望は作らない」と通じる姿勢ですね。
串田:
劇場を経営するのは、東急百貨店という一企業。当然、どう利益を上げるか、赤字をなくすかを考える。すると「コクーンという劇場を、ホテルにしたらいいんじゃないか?」なんてアイデアが当たり前に出てきて、すんなり通りかけたりする。
そこで歯を食いしばって、守ってくれる人たちがいた。僕は、珍彦さんに相当守られていたと思います。幸せなことでした。
知ったかぶりせず、質問することで見えてくる
── 1994年にはじまった「コクーン歌舞伎」シリーズは、同じ演劇の中でも、歌舞伎俳優という別のジャンルの方たちとの取り組みと言えます。
串田:
十八代目中村勘三郎さんと、シアターコクーンではじめた歌舞伎ですね。
僕は第二弾から演出と美術に入りました。勘三郎さんが亡くなってしまった後も、息子の勘九郎さんや七之助さんたちと受け継いで、この2月に第十八弾が終わったところです。
勘三郎さんも、本当に面白い方だった。長く一緒にやっていたから、ぶつかることもあったけれど、嬉しかったり楽しかったりする時は抱き合ってゴロゴロ転がるような子どものような人だった。そして僕は、彼にも守ってもらっていた部分が、たくさんあったと思う。
同じ演劇でも、歌舞伎の人たちとは、使う言葉もシステムも違います。始めは戸惑いました。かつらを作るにしても、職人さんから「“たも”はつけますか? つけませんか?」と聞かれる。僕は分からないから「どういうことですか?」と聞く。すると勘三郎さんがあっちの方から駆け寄ってきて、「そんなのはね! 両方作って持って来ればいいんだよ!」って(笑)。回を重ねて、やりたいことが浸透し、共感してくれる人が増えていき、今では役者ともスタッフの方々とも意思疎通がしやすくなりました。
──異なるバックグラウンドや職種の方々と一緒にモノづくりをするうえで、大切にしていることはありますか?
串田:
知ったかぶりをしないで、質問すること。コクーン歌舞伎の演出でも、歌舞伎俳優さんたちは、基本的に、先人のやり方を踏襲する。登場人物が、舞台に出てきていつも同じところで立ち止まるから「なんでそこで止まるの?」と聞いたりして。
──答えられないことも出てきませんか?
串田:
答えられないのは悪いことじゃない。「一緒に考えようか」と提案をする。たとえば松本市の劇場をつくった時も、反対運動をする住民の方がいました。僕は反対派の人たちの中に入り、反対の理由を聞いた。質問をしていくうちに、反対派の中でも、AさんとBさんで反対の理由が違うと気がついたり、Cさんは反対のための反対をしているのかなと、思いがけず気がついたり。
演劇は、その場限りで消えてしまうものだから
──2003年4月からは、まつもと市民芸術館芸術監督(現・総監督)に就任されています。自治体の劇場運営に関わり、気づいたことはありますか? 今では市民の方とともに作品を創る機会を設けています。
串田:
一番のちがいは、みんなの税金で作っていること。
劇場に来ない人のお金も使うのだから、目の前の客席にいる人たちだけでなく、「演劇を観ないけれど、市に劇場があることには納得できる」「劇場があって良かった」と思ってもらうために、どうしたらいいか考えるようになった。きれいごとではなく、自分のためにも考える必要があった。だって演劇は、その場限りで消えてしまうものだから。客席で見た人の周りの人、町の人、これから生まれてくる人にも、何かを届ける思いで作る。情熱や思いの強さではなく、考え方の問題として。
──演劇で届けたいのは体験でしょうか? あるいはストーリーか何かでしょうか?
シェイクスピアの『マクベス』を脚色した芝居『そよ風と魔女たちとマクベスと』を書いて演出しました。その中で、僕が朗読した詩がありました。
一本道で鼻緒が切れた人がいたのに、黙って通り過ぎてしまった。声かけるべきだったのになと思ってふり返ると、竹やぶでいっぱいの雀が鳴いていて、それが無数のストーリーを叫んでるようだった……。そんな内容です。
人は、たくさんのストーリーを内包している。いくつものストーリーが同時に行き交っていて、他のストーリーとぶつかったりするけれど、自分では気づいたり気づかなかったりする。
物語には、起承転結があるものと想像するかもしれない。でも、起承転結があるとリアルじゃなくなるんですよね。実際に「転」「結」がないことがほとんどだし、本当はまだ何も起きていないかもしれない。どこにも辿りつかないかもしれない。それが人それぞれのストーリーだと思っています。
僕の中には、3歳ごろに疎開先で見た芝居小屋の風景が、ずっと残っているんです。演目も分からないし、誰が出ていたのかも分からないけれど、裸電球がいくつもぶら下がる中でみた光景が忘れられない。記憶とも言えないくらいのかすかな記憶だけれど、僕の原点でもあるんです。
──串田さんが公園のあずまやで上演した『月夜のファウスト』も、「昔、コロナっていうおかしな時期があってね。劇場が開けられないから、ここで芝居をした人がいたんだよ」と誰かが誰かに届ける気がします。
串田:
「題名は何だったかな?誰だったかな?」「あずまやだった?」「違うよ、畑だよ」なんてね(笑)。そんなことは、わからなくなっちゃってもいいんです。ただ、そこにいた人たちの嬉しそうな空気が伝わったり、残ったりすれば。
──地下の小劇場、シアターコクーン、まつもと市民芸術館と、劇場を作ってこられましたが、建物としての劇場ではなく演劇があることが大事なんですね。
串田:
劇場でなくていい、劇場になれば。
日本語では「演劇」と「劇場」は別の言葉だけど、英語の「Theater」には劇場と演劇の両方の意味がありますよね。“芝居”というぐらいだから、昔は芝の上に皆であぐらをかいたり寝そべったりして、人を楽しませようという人たちが、勝手に何かやり始めたことなんじゃないかな。ただし僕は、市役所の公園課に問い合わせて、ルールを確認してからやりましたよ。芸術総監督という立場で、勝手なことをして!って怒られたらいけないからね(笑)
取材のおわりに
これからしたいことを尋ねたところ、串田は「やっぱり、また劇場が作りたい」と照れたように笑った。そして「小道具や衣裳、色々な人がいて、棲みついている人がいてもいい。皆がいて、建物が不思議なオーラを発するような劇場を」と目を輝かせた。同席していた妻で写真家の明緒も、「演劇にとりつかれた人なんです」と笑っていた。
(第1回はコチラ)
【串田 和美(くしだ・かずよし)のプロフィール】
俳優、 演出家、 舞台美術家。 まつもと市民芸術館総監督。
1966年、劇団・自由劇場(後にオンシアター自由劇場と改名)を結成。1985〜96年までBunkamuraシアターコクーン初代芸術監督を務め、コクーン歌舞伎やレパートリーシステムの導入で劇場運営の礎を築く。代表作に『上海バンスキング』『もっと泣いてよフラッパー』『夏祭浪花鑑』など。歌舞伎俳優の中村勘三郎と取り組んだ平成中村座での、歌舞伎演出も多数。2003年4月より、まつもと市民芸術館芸術監督に就任(現・総監督)。信州・まつもと大歌舞伎や、サーカスと音楽と演劇による『空中キャバレー』など市民を巻き込んだイベントで“街に溶け込む演劇” を根付かせてきた。2006年芸術選奨文部科学大臣賞、2007年第14回読売演劇大賞最優秀演出賞受賞。2008年紫綬褒章、2013年旭日小綬章を受章。2015年、ルーマニア・シビウ国際演劇祭でシビウ・ ウォーク・ オブ・ フェイムを受賞。
【公演スケジュール】
独り芝居「月夜のファウスト」 2022ツアースケジュール
作・演出・出演 串田和美
【5月】
15日(日) 大野城まどかぴあ 小ホール (福岡県大野城市) 14:00開演
18日(水) うきは市野外円形劇場 (福岡県うきは市) 18:30開演※野外劇
20日(金) クリエイティブ・スペース赤れんが 外庭 (山口県山口市) 18:15開演※野外劇
22日(日) 文化フォーラム春日井 視聴覚ホール (愛知県春日井市) 14:00開演
24日(火) 富士市文化会館ロゼシアター 小ホール (静岡県富士市) 19:00開演
26日(木) 長久手市文化の家 (愛知県長久手市) 19:00開演
29日(日) あさひサンライズホール (北海道士別市) 14:00開演
31日(火) 扇谷記念スタジオ・シアターZOO (北海道札幌市) 19:00開演
【6月】
1日(水) 扇谷記念スタジオ・シアターZOO (北海道札幌市) 14:00/19:00開演
3日(金) 滝川市民交流プラザ (北海道滝川市) 18:30開演
5日(日) 富良野演劇工場 (北海道富良野市) 14:00開演
9日(木) ノバホール 小ホール (茨城県つくば市) 19:00開演