【井出信孝】ワコムのペンタブレットをリモート環境で。「Project Instant Ink」開発物語
株式会社ワコム 代表取締役兼CEO 井出信孝
Creative Business Unit, Japan Cloud Project Lead 淺田一
Software Engineering, Senior Manager 加藤龍憲
株式会社ワコムは、1984年に世界初のコードレス・ペンタブレットを発表以降、長きにわたりデジタルペン技術の領域を牽引してきました。そして今回、いつでもどこでもクリエイションできる世界を目指し、「Project Instant Ink」がスタート。40年間心地よいペン先の体験を追求してきたワコムCEOの井出信孝氏、Project Instant Inkを推進する淺田一氏、加藤龍憲氏に実現までの苦労や思いを伺いました。
心地よいペン先の体験を追求して40年
──デジタルペン技術では、ワコム社は老舗中の老舗ですよね。
井出:来年(2023年)で40周年を迎えます。ペンタブレットやデジタルペンなどのハードウェアやソリューションをワコムのブランドで販売する事業と、「デジタルで書く」というテクノロジーを切り出して、他の企業の商品を実装するテクノロジービジネスの事業を柱として展開しています。
最近ではペンタブレット、液晶ペンタブレットで生まれるペンの軌跡データを活用して新しい体験を作る、といったソフトウェアサービス分野の開発もしています。ここまで「デジタルで書く」ことにフォーカスしてきた会社は今までにないと思います。
──デジタルに特化しているのはもちろんですが、アナログペンの感覚も重視しておられるように感じます。
井出:そうですね。私たちはイノベーションで価値を提供する会社ですが、アナログを全部デジタルに変えてしまおうとは一切思っていません。テクノロジーは道具のひとつにしか過ぎず、人間が作り出していく表現の幅を無限に広げていくためのものです。
課題感から始まった「リモートクリエイティブ」の取り組み
──ワコム社の新たな取り組みとして、リモートでの制作を実現する「リモートクリエイティブ」があります。コロナ禍の影響でリモートワークのニーズは急激に高まりましたが、それよりも前からリモートでの制作を実現する構想があったのでしょうか。
井出:もちろんコロナ禍は大きなきっかけにはなりましたが、構想はその前からありました。
近年、ハリウッドでもワークフローがスタジオだけで完結するのではなく、中南米や東ヨーロッパ、フィリピンといった地域の企業に外注するようになりつつあります。制作者が各地に分散する中で、直接3Dでモデリングしたい、仮想空間でデザインしたい、といったニーズが高まっていました。
そうした中で今後のクリエイションの在り方を考えた時に、リモート技術を用いたクリエイター同士のコラボレーションは絶対に必要になってくると確信しました。そのためにはローカルだけで心地よく動くハードウェアだけではなくて、仮想デスクトップであってもクラウドであっても変わらない体験を提供しなければならないという課題が先にありました。
リモートでも心地よい描画を目指す「Project Instant Ink」
──そうした中でProject Instant Inkの構想が生まれたのですね。先にあった課題をどのように解決するのでしょうか。
井出:Project Instant Inkは、制作者がリモートデスクトップを介して制作ツールを使う際に、スタジオで制作するのと変わらないレスポンスで描画する技術です。
淺田:この技術によって生まれる線の寿命は一瞬ですが、場所を選ばずその一瞬を心地よくすることでクリエイションを支援します。
井出:そう、描画の遅延によって思考を止めることがないように。Project Instant Inkの技術が誕生した時には、本当に感動しましたね。「求めていたのはこれだったんだ!」と。
──Project Instant Inkの技術が生まれたきっかけは何だったのでしょうか。
井出:実は最初から実現方式が見えていたわけではありません。リモートクリエイティブを実現するための課題を、マーケティングやブランディングではなくイノベーションで解決したいという思いだけがあった状態です。ここから先に進むのは非常にハードルが高く、迷走した時もありました。
淺田:最初はペンの軌跡データがホストに渡り、描画したものがディスプレイに表示されるという技術的なプロセスについての勉強会から始まって、通常のリモートデスクトップにおけるマウスの動きとペンの動きでは何が違うのかを、調べながら試しながら手探りで進めていきました。
加藤:描画したものがディスプレイに表示されるまでの遅延は、ネットワークでペンの軌跡データをやり取りするため、様々な検証や解析が必要でした。最初は、「ネットワークでやり取りするのだから遅延は仕方ない」という意識がありました。しかしある時、「その制約の中でユーザーが見たいものを優先的に見せることができるのではないか」という発想がチームの中から生まれました。
井出:そこがターニングポイントだったと思います。解析すればするほど「これはネットワークの領域だ」「これはリモートデスクトップツールの領域だ」というように、ワコムの責任ではないところで遅延が起きているという意識が生まれていたんですね。
でもネットワークの遅延を計算しても何も生まれません。スプラッシュトップ社やネットワークプロバイダーなど、様々なパートナーの人々とともに取り組んでいる中で、ワコムが貢献できることを徹底的に追及するべきだと考えました。ワコムの領域はユーザーの手元のペンから繰り広げられる体験です。ペンで描画する心地よい体験を、ワコムの領域である「ユーザーの手元」で実現できないか、と考えました。
加藤:試しにユーザーがペンを動かしたら、その軌跡をまず仮の線として描画し、サーバーから描画が返ってくる頃に、仮で表示した線を消してみました。これが思いのほかスムーズに動作したんです。この技術を日本だけでなくて海外のチームにも見せて意見を聞いたところ、多くの人が価値を認めてくれて、積極的に関わってくれるようになりました。いろいろなアイデアが生まれる中で、技術が洗練されて、試作できるレベルにたどり着きました。
淺田:思考を止めないために、描画の遅れがどの程度許容できるのかを徹底的に突き詰めました。いろいろな人に、遅延の値をセットしたマシンで書き比べてもらい、どこまで遅くなると気持ち悪く感じるのかという境界値を調べる実験もしました。こうした実験の繰り返しからヒントを得て、描画の遅れがどのくらい許容できるのかを探っていきました。
プロセスを可視化して、人間の表現力を無限大に
──昨年12月にワコム社、カラー社、NTTドコモ社、スプラッシュトップ社の4社共同で、5Gを活用してリモートからアニメCGを制作する実証実験に成功されました。Project Instant Inkは多くの可能性を秘めた技術だと思いますが、ワコム社として今後の展望についてお聞かせください。
井出:この先に思い描いているのは、リモート環境でも思考や学びを止めない体験を提供することです。その上で、ペン先から生まれる軌跡を解析して、その人の制作や学びの特徴を捉えていきたいと考えています。
制作では作品を完成させることに力を注ぎますが、そのプロセスにも価値があります。プロセスを捉えて特徴を可視化し、制作や学びに取り組む人にフィードバックすることができれば、新たな表現が生まれる助けになります。膨大なペン先の軌跡をAIの活用などによって意味あるものとして整理し、さらに深い価値を提供していければと考えています。
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【プロフィール】
井出信孝
株式会社ワコム 代表取締役社長兼CEO
株式会社ワコム代表取締役社長 CEO。日本の家電メーカーで商品企画、事業企画を経て、ワコムに入社。2020年には、人間の新しい表現と学びを支える一般社団法人コネクテッド・インク・ビレッジを設立し、代表理事就任。
読書、楽器演奏と作詞を楽しみ、休日はパフォーマーの娘とコラボ創作に取り組む。好きな作家は三島由紀夫、好きな音楽はチャイコフスキー、シオン。
淺田一
株式会社ワコム Creative Business Unit, Japan Cloud Project Lead
2013年ワコム入社。電子文具カテゴリのチャネルおよびビジネス開発、その後メディア&エンターテインメント、工業デザイン分野の法人営業を経て、2020年より現職。リモートやクラウド環境下でのペン体験の追求と、新たなビジネスを創出をするプロジェクトを推進。
加藤龍憲
株式会社ワコム EMR Module, Software Engineering, Senior Manager
2017年ワコム入社。タブレット内部で動作するソフトウェア開発に従事するとともに、製品企画に参加。前職でのエンターテインメントロボットや組込機器向けOSの開発経験を活かし、クリエイティブな活動を下支えするベストな方法・システムを日々模索。